お客さんに
「先生は図に乗っている
くらいが、ちょうどいい」

と言われる糀谷博和が所長です。

野球選手、自転車屋さん、回転焼き屋さん…
どれも断念


将来は王貞治に!のはずが中日(笑)

右手4指欠損という生まれつき右指が親指しかない私は、小さいときは左利きなこともあり、巨人の王貞治 選手に憧れ、「将来はプロ野球選手になるんだ!」と思って、毎日、毎日、真っ暗になるまで野球ばっかりやってました。しかし、小学校4年生の時にある出来事があり挫折し、プロ野球選手になることをあきらめました。(詳しくは、個人プロフィールをご覧ください)

あとは、タイヤ修理に興味があり自転車屋さんになりたかったです。もうひとつは、回転焼きをひっくり返すことに興味があり回転焼やさんもいいなと思っていました。しかし、両手を駆使して行う仕事はできないため、すべて断念しました。

ぼくがお金を稼がなければ…


障碍を持ちながらもチャレンジし続けた
尊敬する父

ただ、仕事には興味がありました。父親が病気(筋ジストロフィー)ということもあり「将来は、ぼくがお金を稼がなければ」と思っていたのでしょう。

小学校時代には、障碍者施設で卓球を大人にまじりながら始めたのですが、その方たちが17時過ぎには練習場に現れていたので、子供心に「ところで…、この人たちは、何の仕事をしているのだろう?」と素直な疑問を持っていました。すると、自分でお商売をしている人も何人かおられ、合点がいきました。また中にはお勤めの方も。

そうすると、どうも役所や企業によっては、就職に「障碍者枠」というのがあって、そこで働いている人がいる、そして自分自身も「障碍があるので健常者の人とまったく、同じ仕事ができるわけではないが最悪、就職は何とかなりそうだな」と小学校4年生の終わりくらいには思っていました。

大学時代のバイトは、ママさんコーチ


大学1年生時(一番右下)

大学生時代は、主婦の方など、ママさん世代に卓球を教えるというアルバイトを4年間、行っていました。2時間教えて「破格の5,000円!」。当時でもありえない金額です。「強くなって、全日本選手権でも出場しよう!」なんていう思いまではない普通の主婦の方を教える…チャンピオンスポーツばかりしてきた私にとっては、「楽しくエンジョイ卓球する」という世界があるものだと感心しながら、コーチをさせていただきました。

今となってみればですが、この時に相手(お客様)に合わせて人に教える、ということを学んだように思います。また、ふだんは学生とばかり接していた私にとって、年上の方と、どのように話すのかというコミュニケーションを、このころに身につけていったようにも思います。

練習後にランチをごちそうになるという、貧乏学生としてはこの上ない時間を過ごさせていただきました。何か気の利いたことのひとつでも話し「やっぱり、糀谷くん、おもしろいね~」
などと言っていただけないと、この貴重な食の機会が得られないサバイバルな会話に全集中努めてました(笑)

皆と同じ仕事ができないと分かったバイト体験

大学時代に行ったアルバイトのエピソードをもうひとつ。

大手印刷会社に夜中バイトに行った時のこと。アルバイトに入っている他の人は、製本された印刷物の整理や雑誌の運搬みたいな仕事でした。しかし、私は右手が悪いことを考慮してくれてか、左手1本で出来る仕事、製本されて流れてくる文庫本を右から左に移す仕事を夜中じゅう、行っていました。しかも、それが官能小説(笑)

「もし、この会社に就職したら、おれ、これくらいしか、仕事ないのかなぁ…」

バイト明けにバイト代9,700円の入った茶封筒からじゃり銭を取り出し、モスバーガーでチリドッグを食べながら、そんな思いにふけっていました。

就職は銀行に

大学卒業後、社会人卓球部チームを持つ滋賀県の銀行に就職することにしました。平成6年(1994年)です。当時は、バブル崩壊後ではありましたが、まだ企業にも余裕のあった時代。なんと支店勤務に配属されるまで「3か月」も研修の機会がありました。研修初日、同期と話していると「銀行就職できたし、将来安泰」「誰が、一番早く、支店長になれるかな」などという会話になりました。

私は、今まで卓球というスポーツを通じて、チームとしてまたは個人として勝つ(成果を上げる)ためには、どのようにしたらいいか? ということを先生、コーチから長年にわたり指導されてきました。彼らが話していることが、自分のことしか考えていない会話に聞こえ、「えっ! 普通に学生をやっていたら、こういう会話(考え方)になるの!?」と驚いたことを覚えています。そして、ここが図に乗っているところなんでしょうが、「ヤバイ、こりゃ、おれ、出世するな」と思いながら、研修初日の午後には卓球の強化合宿に出かけていました(笑)

初日に重大な決断!

それと、実は…午前のオリエンテーションを受けている段階で気づいたことがありました。

「あっ! おれ、銀行というところに就職したんや。あれ、まったく興味ない。というか、銀行員したくない」と。

そして、人事部のきれいなおねえさんたちが「糀谷くん、いってらっしゃい」と研修会場から強化合宿に行く私を笑顔で見送っていただいているときに、こう思いました。

「卓球辞めたら、銀行も辞めよう。というか、やりたくないんだから、現役を引退したあと、銀行に残ったらだめだよな…辞めよ」

初日に重大な決断をしていたのです。

支店勤務、ここでクイズです!

3か月後には、支店勤務。といっても…午前中勤務、午後から練習という二足のわらじを履くことになりました。おまけに全日本選手権、国民体育大会、全日本社会人リーグその他、強化合宿などと…年がら年中、卓球の練習や大会があります。銀行の支店に行くのは1年の内にわずか3か月ほど。おまけに午前勤務。そんな銀行員に仕事などまかせられるはずがありません。

みなさん、
「“スポーツ選手”就職あるある」ご存じですか?

クイズです。
「人間は、仕事がないと、どのような行動をとるでしょうか???」
答えは、仕事しているフリをする必要がありますから「自分のデスクの引き出しを、何度も何度も何度も開け閉めします」


机の上にも棚にも何も入っていない(笑)

これが、大正解の答えです。おまけに、机の中に何も書類が入っていないため引き出しが軽い! すごいスピードで引き出しの開け閉めを繰り返す始末(笑)。この時に、私は「仕事があるということは、ありがたいことだな」と身に染みて感じました。

あまりにもやることがなくて、昼ご飯を作ってくれる食堂のおばさんに頼まれて隣にあるスーパーへ買い物にしょっちゅう行ってました(笑)

運命の出会い!?

そんな私を見かねてか、支店長がよくお客様のところに連れて行ってくださいました。「こいつ、糀谷いうて、うちの卓球部の選手で強いんです」などと話し、会話持ちするからです。

そのころに、私は運命の出会いをしています。嫁さんに出会ったわけではありません。出会ったのは“中小企業の社長!”です。支店長と中小企業の社長の会話を生で何社も聞いていました。話の内容は、何せ仕事していないのでチンプンカンプン。しかし、中小企業の社長さんたちの話し方、あり方、はちゃめちゃ加減(笑)に、どこか懐かしさというか、すがすがしさというか安心感!?みたいなものがありました。

「なんか、嫌な気持ちしないな。というか、むしろ、一緒にいて気分がいいぞ。この人たち、気が合うぞ。これは、なんなんだろう!?」と思っていました。

「はちゃめちゃ社長」のエピソード

そのころの「はちゃめちゃ社長」のエピソードを1つ。

いつものように、支店長と、ある工務店社長のところに行きました。そして、いつものごとく支店長が「強い卓球選手」と紹介。スポーツ好きな社長さんでした。ひとしきり話が続いたころに、社長が私に向かって言いました。「君は、ほんまに真剣に強くなろうと思ってるのか? 真剣やというなら、わしに強くなりたいという想いを書いてこい!」と完全無欠の無茶ぶり状態…。

普通の人なら「え、へ、へ」と愛想笑いで終わるのかもしれません。しかし、そこはかつて「滋賀県で一番、ナマイキな社労士」という称号をいただている私。夜、便箋2枚にギッシリ、自分がどういう想いで卓球に取り組んでいるのか? 他の卓球部の人とは、どう違うのか?(まあ、ナマイキです)ということを書きました。
ただ、その時に感じたので「しかしながら、もしかしたら自分の想いや覚悟が甘くなり始めているところもあったかもしれません。このような機会をいただけたことで自分を見つめなおす機会になりました。ありがとうございました」と書き足しもしていました(けっこう、イタいところ突かれたと思っていたんです)。

翌日、その便箋を支店長に預け、社長に届けていただきました。支店長の顔には「お前、ホンマに書いてきたんや」と書いてありました。「う~ん。やっぱ、中小企業の社長って、なんか、ひと味、違うなぁ」と感じていました。

(後日談ですが、私の結婚式の際に、その支店長が、その手紙を挨拶のときに読みました。支店長!!!他人の手紙を本人の許可もなく、勝手にコピーしては犯罪です! 笑)

恩師と一緒だ!

そして、あるお客様からの帰り道。今でも、車中の光景を明確に思い出せます。支店長が「糀谷なぁ。あの人ら中小企業の社長は、めちゃくちゃ、がんばってるんやで」と言ったのです。私は「えっ、支店長のほうががんばってるくらいちゃいますのん!? ぼくでも、支店長が夜遅くまで仕事しているの、分かってますもん」と脳裏をよぎりました。しかし、そのあとの支店長の一言で衝撃を受けたのです。「だってな、あの人らな、商売が失敗しても誰も助けてくれへんねやで。僕ら、銀行が守ってくれるやろ。あの人たちは、後ろ盾がないから、ほんまに大変なんやで」と教えていただいたのです。


恩師 田中 拓 先生

そして、分かったのです。
「なるほど! やっと分かった。ハラ決めて取り組んでいる! 崖っぷちなんだ。すべての責任を自分一人で負っている大恩師の高校時代の監督と同じだ。だから、どこか懐かしく居心地が良かったんだな」

私の大恩師である卓球部監督、田中拓先生は、ピンポン外交の頃の女子の日本代表監督ですから、気合の入り方が半端じゃありません…。はちゃめちゃです。
(詳しくは、個人プロフィールをご覧ください)

30歳の頃に廃部決定

30歳近くまで卓球を行っていました。そしてある日、人事部長が「話がある」と卓球部を集めました。すると「廃部することになりました。1年間は猶予があります。他企業への移籍も可能です。この先の人生を考えてください」と通告を受けました。私としては、アスリートとしての旬は過ぎていました。だから「ああ、これで辞められる…」とホッとした思いと、ここまで卓球をやらせていただいた感謝の思いでいっぱいでした。

その日の会社からの夜道、考えました。「このまま、銀行員を続けて行きたいかなぁ?」と自分自身に問いました。答えは銀行員初日のころの初志貫徹、即決「NO!」でした。

社会保険労務士で独立することを決意

次に思い浮かんだのが「独立しよう!」でした。我ながらずいぶんと単純、いや図に乗ってます(笑)。そして、「でも…飲食店とか、やるノウハウないしなぁ~(てか、料理できひんし…)。どうしよう…」と。

その時です! 本当にひらめきました! 今までの人生で、一番、ひらめいた瞬間かもしれません!

「そや! あの若い時に、支店長に連れて行ってもらった中小企業の社長さんたち、私が最も尊敬している監督みたいな人種の人たち(笑)に“ありがとう”って言ってもらえる仕事がいいな」とひらめいたのです。

そして、さらに単純さは増します。「そや!資格や」と思い、その足で、大津にあるパルコの本屋さんに向かいました。資格本を1冊ずつ見ていき…そして聞いたこともない7字熟語(笑)、「社会保険労務士」に出会います。そこに「人に関する専門家」と書いてあるではないですか! さらに「コンサルタント」と書いてある。「かっこいい~!(なんや!? コンサルタントって知らんけど、笑)これや~」と単純に思いました。さらに私に追い打ちをかけたフレーズ「将来性大」(笑)、猛勉強して合格しました。

開業講座に参加

合格後は、私が勉強していた資格学校から抜かりなく(笑)案内が来た「社会保険労務士開業講座」なるものにとりあえず、参加することにしました。そこでは、現役開業社会保険労務士の方が、30人ほどの社会保険労務士合格者に、書類の書き方や開業への心構え、営業方法などを教えてくれる講座でした。なにせ、まともに働いた経験値が少ない私には非常に充実した講座でした。おまけに、社会保険労務士という業界のことも何も知らないド素人の私にとっては、すべての話が新鮮で素直に、講座内容を吸収していきました。

得意技の講座終了後の飲み会も皆勤(笑)。どのようにお客様が増えていったのかなど、生の開業社会保険労務士の話は、刺激的でした。そして、日々の現場の話が聞けて非常に満足のいく講座でした。

開業することへの不安の日々を過ごすことに

全8回の講座が終わるころ、今後どのように取り組んでいくのかの決意発表の機会がありました。私は「この講座の中で、独立を目指している人に出会えてよかった。開業社会保険労務士の先生の生の話を聞けて勇気づけられた。がんばります!」と決意発表しました。

しかし、その際にとんでもない光景を目の当たりにすることになりました。半分近くの人が「●●に就職が決まりました!」パチパチみたいな…。「えっ! これ、就職講座!? 僕、受け間違えたのか(笑)」と脳震盪を起こしそうな発表の連続。「そうか…講座を聞く中で、自分には開業は向いていないと感じていたんだな」と察しました、遅ればせですが(笑)。いちおう、あいかわらず図に乗っている私には、独立しないという選択肢は微塵もなかったものの、その発表を聞くに際し「ぼくも、独立してやっていけるのかなぁ」と頭をよぎったのは事実です。

その後、開業に向けてまずは実務経験を積もうと、社労士事務所に転職活動を行いました。しかし、就職は決まりません(当時、大阪あたりにしか就職口がなかった)。「さて、どうしたものか」と悩みあぐねていました。「本当に社会保険労務士としてやっていけるのかなぁ? 本当に独立開業なんてできるのかなぁ?」などと、毎日、ため息ばかりついていました。本屋に行っては、社会保険労務士合格開業成功本や開業体験談みたいな本を読みながら、自分を勇気づけて、何とか開業へのやる気を保つ努力をしていました。

合格後の銀行での仕事

開業するかどうか決断できない中、社会保険労務士合格後は、銀行の中で資格を活かせる「業務推進部」へ異動になりました。

ここは銀行の中枢部門でした。本当によく働く方ばかりで、支店で大きな業績を残した優秀な営業マン、元支店長ばかり。おまけにかわいがっていただいた専務や部長も目の前にいる中での仕事でした。

業務推進部は、支店を統括する部署でしたので、支店からの電話が鳴り響き、それに対応するのも仕事です。支店でお客様への景品が切れたら、それの発送に始まり、預金や融資残高などの計数管理、支店応援・支店サポートなど、ある意味、なんでも屋さんです。私は各支店でお客様に年金相談を行い支店の預金残高が増えるよう、支店をサポートするのが主な仕事でした。

そのような中、大きな会社(従業員数約2,000人)の組織の動き方を学びました。「なるほど。こうやって組織がまわっているんだな」

クレーム電話にも対応!


恐怖の電話!?

当時、私の席の横には見慣れない電話が、ポツンとありました。部署に異動して2、3日目に「糀谷君も、その電話に出てくれな困るで」と言われました。支店からかかってくる自分の机の電話は当然出ていました。

「その電話、何ですか?」とお聞きすると、ATMなどに設置されている電話や、フリーダイヤルだというのです。「え! それって、お客様からのクレームやあらゆるお問い合わせの電話でしょ。そんなん、まともに仕事したことない僕に出ろて…(笑)」と心の中で思っていました。しかし、体育会系男子としては上司に基本的に逆らうことはありませんから、出る羽目に。当初、その電話が鳴ると心臓が「ドキ~」としたのを覚えています。

電話に出た初日は、電話の向こうの人、「外国の方ですか」というくらい、何を聞かれているのか、分からない始末。しかし! ここで大学時代のバイトが活きました。全然、強くなりそうもないママさんたちをなんとか、教えていたころのコミュニケーション能力。

3日目には、だいぶん、相手の声が日本語として聞き取れてきて、5日目くらいには、完全な日本語に聞こえ てきました(笑)。クレーム電話、完全対応。またもや、図に乗ってしまいました。「おれ、なんとかなる」と。

ついに開業を決意!

そんなこんなしながら、なぜか専務や部長からは寵愛(誰が見ても明らか)を受け、飲み会の際には、いつもその方たちの横や近くに置いていただいていました。「糀谷な、銀行はな~、こう考えてやっていくんやで」「糀谷な、あと、●●の資格取得したらお前、もっと役立つ存在になれるぞ」などと発破をかけていただいてました。

そして、8か月ほど経ったある日。部長に「ちょっと、こっち来い」と応接室に入れられ…何かなと思ったところ「糀谷にな、この部署を仕切ってほしいと考えてる」と言われました。出世確定です(笑)。就職初日に脳裏をよぎった「ヤバイ、こりゃ、おれ、出世するな」が現実に起きた瞬間でした。支店をまとめるこの部署から支店に出ていく際は全員、支店長で出ていきます。支店よりもワンランクいや、ツーランク上と認識されている部署でしたから、これで将来安泰です。帰りの電車の中「これで、将来安泰やな。これ、引き受けたら、(ケツわれない性分だから)銀行は辞められないよな。ところで…おれ、どうしたいんやったっけ?」


PCと電話置いて自宅の2階で開業!
(左の端のほうには、電話を引いた跡が)

出世確定したて、長女生まれたて、マイホーム買いたて、独立しない言い訳は満載でしたが、膳所駅から野洲駅までの間で考えて…「辞めよう!」でした(笑)。相変わらず図に乗っています。

その後、会社に辞意を伝え、引き継ぎも済ませ、2か月後の平成14年2月1日に自宅2階で独立しました。

開業初日から、飛び込み訪問!

まさに「カネなし、コネなし、スキルなし!」。初日は、とりえず開業本に営業の基本と書いてあった「飛び込み訪問」です。

10時ごろに家、違った、糀谷社会保険労務士事務所の一番近くのいつも使っていたクリーニング屋さんに飛び込み。「私、こんな仕事、今日から始めたんです」と今となっては恥ずかしい限りの出来合いの名刺を差し出しました。熱心に店主のおばさまに1時間ほど説明。すると1時間後に、おばさまが「へぇ、すごいね。でも、うち従業員いないから」…(早く言ってよ)。「従業員いないところに行っても役立たないんだ」を学びました(笑)。

その後、気を取り直し、先ほどのことは全部忘れて、駅の反対側に移動して仕切り直しの初飛び込み訪問! と脳の中で書き換え作業。

仕切り直しの飛び込み訪問。そして断念!

仕切り直しの1軒目。警備会社さんでした。ドアを開けて「社会保険労務士です」と言うと、いきなり「社労士捜していたんだ!」という総務部長との未知との遭遇(笑)。このビギナーズラックを皮切りに、図に乗った私は「ヤバイ、世の中が僕を待っている」と完全に勘違い思考。

2軒目(と言っても横のお店)訪問。事務員さんが「社長、社会保険事務所(役所)の人来てはります」て、私「ん!?…」。

3軒目、事務員さん「社長、保険屋さん、来ました」社長「断っておいて」(社長さん、保険屋さんに丸聞こえです、笑)。その後は、もう…惨敗。「世の中が僕を必要としていない…あの本(将来性大、笑)、ウソやったん!?」

2日目は、近江八幡を飛び込み。体よく玄関先で断り続けられる数、30社強。2日目は、1社たりとも話を聞いていただけませんでした。

3日目は、びわこへの取付道路(びわ湖に通じるまっすぐの道)を野洲から道の両サイド1軒、1軒、訪問。しかし途中で、ある会社の方に「お兄ちゃん、びわこまで営業するんか。ここの道沿いの会社は、全部、●●先生の顧問先やから悪いことは言わへんし、やめといたら」と言われる始末でした。

結局、開業から3日間、飛び込み訪問しましたが、心身ともに疲れ切ってしまいました。(本当に、営業マンの方、すごいと思います。大尊敬です)

独立の意味が分かる

銀行を退職するときに、寵愛を受けていた専務からは「絶対に銀行を頼ったらダメだぞ」と言われて退職していました。(今、考えれば「独立とは、そんな甘いものじゃないぞ」といろんな意味で叱咤激励してくれたんだと思います)。銀行に頼ることもできず…また、銀行を辞める際に「糀谷くん、また、応援するしな」と言ってくれた方々からは、100%電話も鳴らず(笑)

独立するとは、誰にも頼らず、「独り、立つ」ということだと思っていました。ある意味、正解です。ただ、人様の助けがないと、独り立つことはできないと逆説的ではありますが、気づきました。おまけに「ヤバイ。今までの僕の所業を考えたら、誰も協力してくれない。えらいこっちゃ」。トボトボ歩きながら、自分の人生を振り返ることになりました。

しかし、ここからが私の図に乗るところです。「しゃあない。その程度の人生だったんだから。今から人に尽くして、人脈を作っていこう!」と決めました。(今では、多くの人脈!?ができ、飲み会するには困りません、笑)

コンサルできないことに気づき、お先真っ暗

特にこの飛び込み活動3日間で印象深い出来事があります。ある会社の経営者に事務所サービスをご説明していたところ、突然、机をたたかれ-…「違うんや!ワシが聞いているのは、どうやったら従業員がやる気の出る賃金制度が出来るか? ってことなんや」と怒鳴られました…当時の私には、それに応えられる力量はこれっぽっちもありません。「何もできない。答えを持っていない(仕事にならない)」

社会保険労務士試験に合格した瞬間に気づいたことがあります。「ふ~、なんとか合格はできた。あれ!?待てよ…コンサルティングとはどういうこと? 試験に合格したのに、コンサルティングできるようになっていない…」と。社会保険労務士試験は、労働基準法を始めとする労働法を覚える、基本的には暗記試験です。合格したところで、コンサルティング能力が身についているはずがありません。「あの本(人に関するコンサルタント)、ウソやったん!?」という感じでした。

「これは、えらいことになってしもうてるなぁ。同期の連中、失敗する、思てたんやろなぁ」真っ暗闇でした。

*後日談ですが、机をたたかれて怒られた方のおかげで、当事務所の強みである「賃金制度・評価制度設計サービス」をご提供できるようになりました。

開業時には悔しい思いもした

飛び込み訪問では、悔しい思いも味わいました。ある薬局に入ったところ「社会保険労務士です」と言った瞬間、「ああ、要らん、要らん」みたいなことを言葉でなく、犬を追い払うかのように右手で「しっ、しっ」みたいにやられたこともありました。

食べるために、資格学校の講師もしていました。笑えるのは、私が開業2か月目くらいなのに、「社会保険労務士開業ノウハウ講座」の講師をしていたことです。「社労士事務所の成功ノウハウ、僕が教えてほしいわ」と思いながら、教壇に立っていました。社労士試験用の授業も受け持っていました。ある日、受講生が寄ってきて「(アノ)糀谷さんですよね? 私、卓球していたんです。こんなこところで何をしているのですか?」と聞かれました。彼としては、卓球という世界で華々しい成績をあげていた糀谷さんが、なんでこんなこと(てか、あなた、僕の授業、受けてますやん、笑)しているの? という感じだったのでしょう。

なんとかしなければならないという思いから、商工会や商工会議所にも挨拶に行きました。ある商工会で「責任者の方にご挨拶に伺ったのですが」と事務員さんに名刺を差し出しました。その事務員さんが、そこのトップに私の名刺を持って後ろに下がったところ、その方が露骨に嫌そうな顔をされました(こちらから見えてますけど…)。そして、部下に「●●君、ちょっと。(私の代わりに)話を聞いてあげて」と首で指図してました(いや、それも見えてますけど…)。

そして、応対してくれた職員が、私に輪をかけてナマイキな奴でした(笑)

「へぇ、前職なんだったの? 銀行? おれも●●銀行(都市銀行)だったんですよ。社労士も、大変でしょ~。へぇ、なんか特徴あるの? また、なんかあったら、連絡しますね」みたいな感じでした。絶対、なんかあるはずありません(笑)

また、ある税理士事務所にご挨拶に行った時のこと。所長さんが「何か分からないことがあったら、教えてあげるし、気軽に聞いてね」と言っていただきました。それならと思い「ありがとうございます。すみません、登記簿謄本とは、何ですか?」と、お聞きしました。

すると所長は「へ!?」みたいな顔にはなりながらも、なんとか取り繕われました。しかし、そこにいた4人のパートのおばさんに「あんた、そんなんも知らんと開業したん!?」とばかりに、クスクスと大笑いされました。それほど、声には出していなかったかもしれませんが、少なくとも私には大笑いに聞こえました。「クソ! こいつ、見とけよ」と思ったのを覚えています。

開業後は、いろいろな失敗もした!

開業時には、銀行から年金相談のお仕事を3、4か月は、いただいていました。「この間になんとかしなくちゃ」と焦るばかり。焦っていては、いいことが起きるはずがありません。

開業後は、いろんな失敗をしましたが、その中でも思い出深い(笑)失敗を1つ。

開業して1か月くらいのある日、事務所の電話が鳴りました! 電話が故障しているのかなと思うくらい電話が鳴らなかったので正直うれしいというか、驚きました。「鳴るんや!」と。

そうすると
先方「もしもし、糀谷先生ですか。素晴らしい先生だと、先生のお噂をお聞きしました」
私 「え! どこで聞かれたんですか?(飛び込み訪問した先の方かなぁ? 年金相談先?)」
先方「いや、それは先方のプライバシーもありますし言えませんが、先生のお噂をお聞きしました」
私 「はあ…そうなんですね」
先方「先生、もしよろしければ、この機会に新聞広告を載せられて一気に事務所を伸ばされたらいかがですか? 先生、ご高名ですから、いいと思いますよ」

要約すると、このような電話でした…今なら、分かるのですが、当時は冷静な判断ができませんでしたから少し考えて、ワラにもすがる思いで
私 「お願いします!」
先方「承知しました。先生、広告掲載には、この大きさなら●万円、この大きさなら▲万円かかります。先生、載せられたら電話がジャンジャン鳴りますよ」
私 「▲万円でお願いします!」

いっちょ、あがりです(笑)。当然、広告掲載前の事前振込システムです。

ついにその日の朝。朝早くからコンビニに新聞を買いに行きました。「載ってる~(って、お金を支払ったので当たり前です、笑)」

そして、9時過ぎに電話が鳴りました!「鳴った!」。
「先生、金(ゴールド)にご興味ありませんか? 今は、買い時なんです」
「先生、石油にご興味ありませんか? 先生なら、このくらい、買われたらいかがですか?」
「先生、先物(取引)にご興味ありませんか? 今は、優先的にご高名な先生にご案内しているんです」
電話が鳴りやみませんでした…。

初めての顧問先

そんなこんなしながら、初めての顧問先が出来ました。

ある勉強会で社長の息子さんと同期で、一度、社長に話を通していただけることになりました。社長に私の話を聞いていただく機会を得たのです。飛び込み訪問の後遺症で(笑)半分以上、自信喪失状態だったのですが、何が良かったのでしょうか、「ほな、頼もうかなぁ」。

その瞬間は、下を向いていたと思います。おそらく「え!」って声に出して顔を上げたと思います(笑)。聞き間違えかと思いました。めちゃくちゃ、うれしかったというか、安心したというか、何ともいえない感情をいだいたことを覚えています。仕事がもらえたというより「自分が認められた!」という感じだったのでしょう。

「もしかしたら、やっていけるかもしれない」と図に乗っていく瞬間だったかもしれません(笑)。当初は、総務を行っていた社長の奥様は「別に私が手続きできるし、頼むことなんてないんじゃないの」というそぶりでした。しかし、いろんな労務相談に乗り解決策を出していく中で信用していただいたのか、代替わりされた今でも顧問契約は続いており、良い付き合いをさせていただいております。本当に、ありがとうございます。

中小企業の社長の習性!?を教えてくれた
お客様

そのころに、助成金業務でご紹介を受けて仕事になった社長さんも忘れられません。

会社に着いて私が話し始めたところ、まどろっこしかったのでしょう。
「ああ!!! もう、いいから、結論はどやねん! もらえるのか、もらわれへんのか。ほんで、どうしたらええねん!」とすごい大剣幕。正直、時が止まるくらい、あっけにとられました。「中小企業の社長は、基本的にせっかちだ」と瞬間、悟りました。

ギアが壊れるくらい最大にあげました。「結論から話そう! ポイントだけ話そう! 何をしてほしいかを明確に伝えよう!」と努めたところ、すんなり仕事になったのです。これは、いい経験でした。一見、専門家づらした悠長な説明は、中小企業に受けないのだなと教えていただきました。今でも顧問契約は続いており、この話を社長(現在、会長)に話すと「おれ、そんなん言うたかなぁ」と笑顔で話してくださいます。

開業3年間は、不安な気持ちを抱えながら
自宅で仕事

開業3年間は自宅で仕事しながら、少しずつ少しずつ、仕事が増えていきました。 実はこのころ、朝起きた瞬間、毎日、自動的に浮かんでくる考えがありました。「今日、契約解除あったらどうしよう」です。ある意味、とてつもない不安を抱えながら、おっかなびっくりやっていたのを覚えています。今でも「本当にお客様は、満足してくれているのかな?」と日々、不安になることはありますが、このころの不安の比ではないように思います。不安な原因は、いちおう自分なりには分かっていました。

社労士事務所に勤めたこともないですし、まともに働いた経験値も少ないですから、お客さまからのご相談に、最適な回答が出せているのか、お客様が満足する回答になっているのかが不安だったのです。何かご相談があると、役所に電話して、質問の内容によっては何か所もの役所に電話して、自分で調べて調べて回答をする、というようなことを行っていました。「本当に満足されているのかな? 他の社労士さんだったら、どのような回答をされるだろう?」開業3年間くらいは、おっかなびっくりでした。

社労士、初心者マーク運転!

ただ、今もそうですが、フットワークは軽かったです。元卓球選手だけに(笑)。唯一の強みです。

そのころのエピソードをいくつか、ご紹介します。

あるお客様は、お商売の関係上、訪問する時間は7時にとお願いされていました。19時じゃないですよ。朝の7時です(笑)。必要とされているわけですから、全然、嫌でなかったです。その当時、その社長に対する私の使命は、保険料をちゃんと支払わせること(笑)。「おれもキツイけど、あんたも譲らへんなぁ」と、よく分からないお褒めの言葉をいただいていました。

他のお客様では、サイドビジネス部門を閉じることになりました。そこを任せていた元店長と泥沼の争いに。元店長から、社長とは直接、話したくないが今後のことを話したいと打診があり、その社長から「先生、(1人で)行ってきてくれへん?」とのこと(いや、ウソでしょ!?)…仕方なく伺ったら、明らかに毛なみの違う人種の方々が3、4人。(店長さん、1人で待ってくれていたんじゃないの!?)。なんとか、熱意だけで話をつけました。

今もよくありますが、夜に紛争相談のために弁護士事務所にご一緒して、夜中にご飯食べながら、今後の対応策を考えたりとか、汗をかくのが嫌いではありません。元アスリートなだけに(笑)

社会保険料を滞納せざるをえなかったお客様と、社会保険事務所に、もう少し待ってほしいとお願いに行った時のこと。聞いてくれたかのように思えたのですが、数日後に「取り立て強制執行」…。今の時代なら、社会保険事務所も、そんなことしないと思いますが、あれは、悔しかったです。

なけなしのお金で研修受講!

それほどお客さんもお金もないのに、賃金コンサルタント塾などにも通いました。8回コース30万円! 当時の私からすると、とんでもない覚悟で「是が非でも、自分のものにするんだ!」と最前列、かぶりつきで講師の話を聞いていました。

この体験は非常に良かったです。賃金制度や評価制度作成ノウハウが身につきました。それと、副産物も手に入りました。全国の社会保険労務士と知り合う機会にもなり、どのようにお客様を増やしていくのか、どのようにすればお客様が喜んでくれるのか、どのようにノウハウを手に入れていくのか、なども非常にたくさん、手に入りました。もちろん、毎回の受講後の飲み会でです(笑)

セミナーも開催! しかし、集客に苦労

当事務所の売りであり、特徴の1つであるセミナーをやり始めたのも、このような勉強会に参加したことがきっかけです。お客さまから聞いたお悩みへの解決策を、事例をふんだんに入れながら、セミナーで話す。一番初めに開催したセミナーの際には、「台本」を作り1週間かけてセリフをまるまる覚える作業を行いました。毎日、半日以上やっていましたから、合計30時間以上もの時間を使っていました(ちなみに、セミナー当日はあまりにも緊張しすぎて、ほぼ、とびましたが、笑)

案内チラシ作成、封入作業、郵送作業、会場予約、当日の会場準備、あげくの果てには、弁当準備もほぼすべて、1人で行っていました…(今は、スタッフがやってくれるので、非常に助かります。いつも、ありがとうございます)。

当初は、案内チラシを打っても全然、お客様が集まりませんでした。申し込みが1人なんてことも1回や2回ではありません。そんなときは、知り合いの人にサクラで来てもらっていました。50人入る大きな部屋に、講師の私と受講者2人。そのうち、1人サクラ(笑)。本当の受講者が帰った瞬間にセミナーは終了、飲み会です(笑)

家の外に事務所を持とうと決意!

開業から3年を経たころ、ようやくお客様も増えてきて、多少、経営が安定してきました。家で開業している分で言うと、家族が食うには困らないなぁという感じでした。そこで考えたのです。「あれ!? この程度のことでよかったっけ? もっと、大きくお商売したいと思っていたんじゃないの?(元卓球選手として)アスリート出身者でも、その経験を活かして社会の中で成功するということを証明したかったんじゃないのか」と、思い出し「よし! 外に事務所を持とう。スタッフを雇って大きな商売にしていこう」と決めました。

草津に事務所移転!


草津SOHOオフィス

そこで事務所を探したのですが、滋賀県が草津駅前で「滋賀県SOHOビジネスオフィス」を低賃料で貸し出していることを知りました。これは、当時流行りのSOHO、すなわちSmall Office/Home Officeの頭文字を取った言葉で、いわゆる「小規模事業者」向けのオフィスです。「これは、いい! 滋賀県と仲良くなれるだろうし、一石二鳥だ」と考えたのです。ところが、当時の入居基準は「ビジネスにITを駆使していること」とありました。税理士や社会保険労務士などのいわゆる士業関係者は入居困難だという情報が入ってきました。そこは図に乗っているので、ご安心ください(笑)

「さて、どうしようか…」。と言っても、何の良策もありません。入居審査の面接は、滋賀県庁で行われました。大応接室に県庁の方が10人以上いたでしょうか。私はそこで「給与ソフト、使ってます!(IT基準クリアでしょ!)」と渾身のプレゼン(笑)。その時、県庁の方々が全員「唖然」と、顔に書いてありました…。見かねたトップの審査官が「糀谷さん、(もう分かったから…)では、あなたをオフィスに入居させたら、周囲に入居している事業者を支援してくれますか?」と聞かれたので言い放ちましたよ。「もちろんです!」

そして、無事、入居。士業の方、何人にも聞かれました。
「糀谷先生、どうやって入居したんですか?」と(笑)
ただ、県庁の方々にご迷惑をお掛けするのも本意ではないので「内緒!」とよく、言っていました。

初めての雇用!そして、失敗

そして、初めての採用活動を行いました。草津駅前ということが良かったのか、ハローワークに求人を出したら結構、応募がありました。その中で、最後、2人にしぼりました。「さて、どちらも今の私に必要な人だが、どちらを採用しよう?」。Aさんは、ITに長けている(私が弱い部分です、笑)、Bさんは、面接時「私とやっていけそうですか?」とお聞きした際に「所長は、頭の回転が早い方だなとお見受けします。ついていけるかどうか分かりませんが、もし雇っていただけたら、ついていけるように努力します!」と言われていました。

どちらの方も仕事ができる感じでしたが、Bさんは車の免許を持っていないことあり、Aさんを雇うことにしました。採用をお断りする際に、私はBさんに「(私は私で)Bさんは、非常に頭の良い方だとお見受けしました。今回の採用は見送らせていただきます。申し訳ないです。ただ、私が2人目を雇う体力が出来たら絶対にBさんに、一番にお声をかけさせていただきます。しかし、この話は決してBさんの今後の採用活動をとがめるものではありませんから」とお伝えしました。

そして、Aさんを採用! ある月曜に初出勤、、、その後「4日と4時間」、金曜日の昼には怒って退職されることになりました…人の採用のお手伝いどころではありません。人って本当に難しいです。私は速攻、Bさんに電話して「まだ、採用、決まってませんか?」とお伝えし、金曜の14時には瀬田駅前でお茶をして採用を決定していました(笑)。この人は今も、事務所を支えてくれています(いつも、ありがとうございます)。

3年後、野洲に帰ってきてスタッフ増員!


1つ前の事務所の看板
(当時のスタッフ宮川が考案)

滋賀県SOHOビジネスオフィス時代には、滋賀県発信のセミナー講師を行わせていただきました。そのようなこともあり、順調にお客様が増えていたわけですが、入居期限が3年でした。どうしようかと考えたのですが、もともと邪魔くさがりですので「家の近所のほうがいいな」と野洲で事務所を構えることにしました。

そのころに、事務所発展に大きく貢献してくれる人材が入ってきます。今は、近所で介護事業所+な~んちゃって社労士(笑)として開業をしている宮川君です。初日、勢いよく事務所ドアを開けて「今日からお世話になる宮川です!よろしくお願いいたします!」と言ったのは良かったのですが、足元を見るとなぜか、赤い靴下(笑)。「勝負パンツじゃないんだから」と心の中で笑っていたのですが、そこは事務所を支えるBさんに「所長!ちゃんとするように教えてください!」となぜか私が怒られる始末…彼には、セミナーチラシをはじめとする事務所のマーケティング全般もやってもらい事務所発展に本当に大きく貢献してくれました。

元学習塾講師だった森君も事務所になくてはならないスタッフです。講師を務めていた経験からか、非常に人に伝えるのが上手です。子供を指導した数が、すごいので私の子育て相談まで、乗ってもらっていました(笑)。やっぱり、教えるのが上手です。

現在はそんなスタッフ12名とともに、日夜、お客様のために邁進しております。

今後について


現在の事務所のエントランス

今日現在もおかげさまで、順調にお客様が増えており、本当に感謝です。仕事のないつらさは、机の引き出しを開け閉めしていた(笑)サラリーマン時代に、骨身に染みて知っているので本当にありがたいです。

そして、何よりもこんな私についてきてくれているスタッフに大感謝です。スタッフからは「所長は、何もできないから(知らないから)」と言われるのですが、結構、当たっています(笑)。普通の人よりも、できないことがたくさん、あるのも事実です。いつも、ありがとうございます。

専門知識の研鑽は当然として、経営手法をはじめとする必要な知識も学びながら、開業20年を迎える今現在は、200社を超える顧問先様(スタッフが言うには、当事務所のお客様の伸びは確変中らしいです、パチンコをやる人しか分かりませんが、笑)に支えられています。

大恩師の高校時代の監督に、よく言われた言葉があります。

「勝って兜の緒を締めよ」

この言葉を大切にしながら、今後もお客様への「“ません”3原則」を大切にしながら、お客様に貢献したいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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